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株式会社伊丹レンタカーの歩み(1967年〜1969年)

山城龍

戦後、自動車メーカーに就業していた創業者・山城龍(1916年〜1989年)は、当時の人々が様々な環境での自動車を利用してゆく様子を直接感じ取り、大正生まれで同世代であった数名とレンタカーの設立を考えていた。(昭和40年頃)レンタカー設立にあたり詳しく申請など分からなく、また様々な規制など厳格化がされていない時代に、設立に向け奔走した記録や写真が残っている。

伊丹レンタカーオープン
伊丹レンタカー

「伊丹レンタカー」の設立は厳密に言うと、昭和41年7月20日(株式会社改組以前)となる。ほぼ同時期に創業者・山城龍はその数名とともに川西市に昭和41年9年月24日「川西レンタカー」(川西市栄根流田)を設立。41年式プリンススカイライン5台、41年式ダイハツベルリーナ5台の10台で営業を開始。当時の自動車売買契約書には「川西レンターカークラブ」となっている。
日本における貸渡自動車業がレンタカーのルーツであるドライヴクラブとレンタカーという言葉がミックスされているようなその言葉は、当時の業界の急成長の具合がよく分かる。

「株式会社伊丹レンタカー」となる昭和42年3月18日、スパイダー、ベルリーナ、コンパーノなど10台、(伊丹市悠紀町520-1)現伊丹市西台3-1-10で営業開始、現在に至るわけであるが、その時期、昭和42年3月22日「伊丹レンタカー尼崎営業所」(尼崎市御園町)も設立、ダイハツスパイダーF40K 3台、ダイハツベルリーナF40 2台で営業を開始スタート。伊丹市周辺のエリアを網羅すべく各々開業することとなる。当時、阪急川西能勢口駅前、阪急伊丹駅前、阪神尼崎駅前でのほぼ同じ時期での3か所での営業開始は、お客様の利便性をレンタカー人気と上手く最大限に利用した極めて顧客満足度の高いマーケティング戦略、経営哲学だったのではと思うのである。

当時の料金と申請の理由があったので記載しておこう。
「経済の高度成長に伴い労働時間は短縮の方向にあり、国民の所得も著しく伸長し生活の安定とともに勤労者をはじめ国民全般的に余暇を楽しむ状況はますます募りつつあります。このような社会情勢の中で自動車免許証の取得者も急激に増加しておりますが、尚国民の所得は欧米の自動車先進国の如く、各人が自動車を所有するには程遠い感があります、周辺には総監部〜(中略 各企業名等)の隊員、勤労者多数が生活して居り、これら地元の強い要請に応えレンタカーを開設すべく踏み切った次第で御座居ます〜・・・」
というように弊社の現在に通じる「地域密着」「地域の皆さまと共に・・・」の起源なのである。

余談ではあるが・・・当時は特にスポーツタイプであるダイハツコンパーノスパイダーの人気がすごく事務所にて列をなして待つという事もあったのだと聞いている。また人気に伴い事故も少なくはなく、当時、免許取得者の急増で運転技術がまだまだ未熟だったことがよく分かる。
坂道でブレーキを過多に踏んでしまい、フェードしてしまいブレーキトラブルも多く当時の経営の大変さがよく分かる。

更に、その頃の貸渡料金は今と少々違い時間料金(基本料金を別に設定の場合もあり)プラス走行料金を支払う制度で車種により異なっていたりもした。人気を反映し予約の際に予約金を(当時\1,000から\1,500程度)いただいて予約取り消しの際は(\100から\500)を支払う事となっていたりもした。延長、無断延長などの時は別に時間料金を支払わなければならず、必ずしも貸渡のルールが一律だったわけではない。また当時のタクシー初乗り料金(130-140円)と初任給(4万円)などと比べると当時レンタカーの需要が高まったとはいえ高価でレンタカーはかなり高級なものだったと言える。
すなわち当時の方が今よりも車の人気、稀少さ大切さがよく分かる逸話である。

50周年記念

1970年代

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