手記

「(株)伊丹レンタカー50周年回顧と業界の発展について」

(歴史的背景編)

山城 裕司

50年… 「半世紀」という言葉を私自身普段なかなか使うことがない。それほどその歳月というものはもちろん長い時間であり、歴史、人、街の変遷を見て一緒に礎を作ってきたという自負や自身と言うものも生まれてくる時ではないだろうか。今回のHPリニューアルに向け、レンタカー業界のルーツの自動車の日本登場、そして伊丹レンタカー50年の歳月を振り返り記録していくこととした。

自動車の歴史は世界では1700年代から…日本はというと欧米とはすでに1世紀以上遅れての自動車の登場であるが、今日の日本の自動車の発展はわずか1900年代前後から約120年ほどであり、その発展と進化、日本の自動車産業の現在の世界における立場を見てみると驚くべき進化であり、日本人の勤勉、器用さのアイデンティティをやはり感じずにはいられないのである。

そのうちの近年50年…と言う期間は非常に大きな進歩と発展があり、その日本の自動車産業の歴史の大きな比重を占めているのである。レンタカーと言う言葉が生まれる前の黎明期まではとても詳細にはさかのぼることはできないが、できる限りの歴史的な事実、私が得た知識と経験をここに記していこうと考えた。

「歴史的背景」〜黎明期〜

日本におけるモータリゼーションの目覚ましい進展に伴い、レンタカー事業は今や日本の国民生活に定着、個人法人の利用、用途を問わず、目的、形態が多様化し発展してきている。

レンタカーの起源と歴史という観点では、日本国内へ最初に持ち込まれた自動車を記しておかないといけない。フランスのブイ機械製作所のテブネ技師によって明治34年馬車の代わりに発明された「トモビル」――石油の発動で運転する自動車――を見本として持ってきたものが最初と言われている。

1900年前後の明治時代、日本における最初の自動車の登場はロコモビル蒸気自動車である。また国産の蒸気自動車 山羽式蒸気自動車、ガソリン乗用車タクリー号を完成させ、そしてその後ガソリン自動車の流れになっていくことになる。現在でもあまり知られていないのだが、電気自動車はそれ以前からガソリン車量産化まではかなりの割合を占めていたことが事実で、電気自動車は一度衰退し姿を消したタイプの車両だったのである。
これも今に知ると非常に興味深い話なのである。

当時の情勢に戻るが、ある文献によると明治40年代(1910年頃)運輸会社が貸自動車業を開始したとあり、当時の自動車業界はわずかな数の輸入車とその販売から始まったわけであるが、当初は花柳界などを得意先に大当たりしたようであった。これら明治、大正時代のいわゆる貸渡車両は、自動車を貸すが運転手付きなどいわばハイヤー運営であったと考えられ、明治時代の人々が英語の「Hire」を「貸自動車」と邦訳したものであると考えられ、この貸自動車業は今日のレンタカーのシステムとは程遠い様に感じるのだ。しかし自動車を貸すと言うところでは日本で最初、大変重要な事柄ではなかったかと考えるのである。

「レンタカーの起源と歴史」 〜発展期〜

現在のレンタカー事業やシステムなどいわゆるハイヤー的でない形での発展を追っていくとしよう。全国レンタカー協会編「レンタカー発展史」によると、1920年代にレンタカーという事業がアメリカで生まれたとなっている。そのころの日本では第二次世界大戦、そして敗戦のタイミングが重なり自動車産業は大きな打撃を受けた。ガソリン不足のため木炭自動車などが登場し、戦後しばらくは連合軍総司令部(GHQ)の指令で乗用車などの製造が全面的に禁止され、それが解除されたのは昭和24年(1949)である。
そのころから駐日米軍関係から払い下げを受けた中古車を賃貸する事業者が現れたとされている。自動車、当時はまだまだ一般の方々には手が届かないものであり、敗戦の痛手から立ち直り日本全体が落ち着きを取り戻していった頃である。自動車は稀少価値もあり人気を呼び次々と事業者が増加していった。

「ドライブクラブ」と呼ばれる 会員制から許可制へ 〜発展期〜

当時はほとんどの事業者が会員制を取り入れ、自動車は会員の共有と言う形を取っており「ドライブクラブ」とよばれた。この形から発展した事業者が後に「レンタカー」となっていくのである。現在でもドライブクラブと呼ばれる形で存続するレンタカー事業者は希有な存在となってきているが、弊社設立、組合等でお世話になりそして現在でも密接なお付き合いをさせていただいているコウベドライブクラブさん(神戸市中央区)がある。
前述のような背景で当時のことやカタカナ表記であること、観光地であった神戸のことなどを追懐していただくのも良いのではないかと想うのである。

この「ドライブクラブ」から派生した、すなわち短期貸し自動車が自動車運送事業と密接に関係することから、昭和26年(1951)に、道路運送施行規制第62条「使用者を特定した有償貸渡許可申請手続規定」で許可を受けさせることを指示した。
これで許可された自動車は一般自家用車と同じナンバープレートであり、事業者は多種多様の車種を揃え始め、昭和32年(1957年)では全国283事業者、車輌数は1943台であった。

「ドライブクラブとナンバープレート」 〜激動の発展期〜

当時は運転免許保有の数、レベル、車の材質、性能、道路状況、交通ルールなどそれほど優秀でなく(弊社の昔の写真からもわかるように)事故が多発、未舗装路走行など危険度が高く、賠償問題、トラブル、料金などドライブクラブに対する世論が批判的など、風当たりが強くなってきた。それらの影響も関係し運輸省は車輌貸渡しの「短期貸し」と「長期貸し」についてその許可申請手続きを明確化、管理体制を整えるため、昭和32年(1957年)に区別した。この区別化した短期貸しと長期貸しが現在の「レンタカー」(短期)であり、リースカー(長期)である(意外にもまだこの時点ではこれらの言葉は生まれていない)。また同時期(1957年)ナンバープレートについては「貸自動車」(レンタカー)と見分けがつくように「黒字に白文字」に定められた経緯がある。これは世間では「葬式ナンバー」と嫌われ、利用者は離れ、事業者の廃業、減少にもつながる大きなことになり、昭和35年(1960年)全国で202業者、車輌数921台にした激減した事実もここに記しておこう。

そのナンバープレートの変遷であるが、先のいわゆる葬式ナンバーの改定は業界の縮少ということもあり、改定に大きな影響をあたえたと言える。事業者自らのサービス向上、さらに様々な面で整備、協力し協会などの陳情や働きかけが実り、昭和34年(1959年)には「白字にオレンジ色文字」に改められた。さらに2年後の昭和36年(1961年)に現在の形と同じ「白地に緑文字」、そして「わ」ナンバー(北海道、沖縄では「れ」ナンバー)の登場に続くのである。

ナンバープレートの他に自動車以外の貸渡の禁止、運転者や車庫の確保の問題、自動車の整備についてさらには許可期限(2年)の設定など詳細にわたり定められた。これは同年の道路運送法施行規則および自動車整備基準改定を機に行ったもので、「ドライブクラブ取扱いについて」などは廃止された。先に述べた通達が日本におけるレンタカーの基本的な規定となったことは間違いなく、激動の発展期であった「ドライブクラブ」が日本におけるレンタカーの前身であり起源であると言えよう。そして富裕層の優雅なドライブを楽しむだけの時代は終わり「レンタカー」という事業としての発展を遂げていくのである。

業界競争の変化と取扱車種の多様化 〜成長期〜

1960年代からの高度成長期転換期、東京オリンピックなどに代表される大きなイベントは、日本の復興を国内外に印象づけ、また国民生活もゆとりができ、旅行やレジャーにも関心が出てきた。昭和38年(1963年)にメーカー系大手事業者が参入し、続いて昭和40年(1965年)頃からマイクロバス、トラックのレンタカーが導入可能となったのもこの頃であった。そしてこれらの事案と導入は、今日の事業としてのレンタカーの発展とシステムの確立を支える事となったのは間違いない事であると言える。弊社が現在マイクロバスを数台保有し、各種クラブ活動や29人までの小規模移動などにフル稼働している現状は、当時いわゆるメーカー系事業者参入による影響が大きく、新しい需要を掘り起こそうと思案した結果であると聞いている。またメーカー系レンタカーは同じ車輌(s600)を大量に導入し、全国ネットワークを構築(いわゆる乗り捨て可能)をも実施した。メーカー系レンタカーの進出は、当時10台前後が平均であった個人、零細レンタカー事業者では考えられない影響とインパクトを与えたことであった。メーカー系のレンタカー第一号は本田技研の系列会社であったことを知った時は、私自身少々驚いたものであった。大手レンタカー先駆者的な役割を果たしたそのレンタカー会社は、他社に先駆けシステムを構築したにもかかわらず事業から撤退。当時の事業数からみると10%がメーカー系、90%が中小の個人経営という割合であった。
この時期に各メーカーは車種がスポーツカーの発売に重なったことなどがレンタカーのイメージアップにも繋がり相次いで参入、昭和40年代に於いて自動車メーカー系の活発な参入と旅行業界、鉄道系との連携など急速に成長、発展していくのである。

それらの中で弊社(株)伊丹レンタカーも産声をあげるのである・・・

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